平成20年度第62回栃木県芸術祭演劇祭①

2008.11.8(土)~9(日)
於:栃木県総合文化センター サブホール

今年はとにかく、参加者もできるだけ他の舞台を観て、お互いに意見を述べ合おうという方針の下、さまざまな意見が各公演日の最後、交わされました。一応、なぜか私も講評を担当することになってしまったのですが、一応現場で感想は述べたものの、どちらかというと感覚人間なんで、言葉に変換するのが時間がかかる傾向があります。したがって、通常、一晩以上時間をとって、そこで残った印象を順次言葉に変換しなおし、論理だてて感想として書いているわけです。したがって講評の時にはまだ印象の方が強くて、かなり漠然とした物言いになってしまっており、聞いた方々にはわかりにくかったかと思います。申し訳ありませんでした。

そこで、一応、ミリアム独自の感想として、もう少し論理だった感想文を以下に書くことにします。といっても印象が元ですので、言っていること自体はそれほど変わっているわけではないことをご了承ください。

まずは11月8日に上演された二作品から。

フランダースの犬より『奇蹟の朝に』 劇団today

今市においてコンスタントに公演を続けている劇団todayさんによる名作『フランダースの犬』にほぼ沿ったお話です。原作とやや違うのは、ネロの父を革命家というか、横暴な国に対して立ち向かっていた存在であったという設定でしょう。この父親の潔さ、正義感をネロは受け継いでいるということで、性格付けの根拠を形成しています。

特筆すべきはパトラッシュがしゃべること(笑)。時には二本足で立ったりなかなかユニークな設定ではありますが、愛嬌で止まっており、ギャグに流れていない処理が、この作品にちょうど合っていた様に思います。

芝居の中に動物をどう出すかということはかなり難しいものがあります。本物の犬ではどうしてもアニメで表現されたような情緒ある感情を描くことが難しい。といって犬を人間がやるとどうしてもおかし味とか滑稽さが出て来やすい。非常に処理が難しいといえます。

今回は犬の着ぐるみとはいえ、顔はわんこメイクの人間の顔が丸見え状態。でも、上手い具合に、笑いももちろんあるものの、むしろネロとの、あるいは周囲の人々へ向かっていく犬の心を描き出すことに成功していたように思えます。一つのアイデアとして、なかなか参考にできるのではないかと思いました。

演技の方では、ベテラン勢がポイントポイントで物語を支え、まだ演技に慣れていない主として子供たちなどをしっかり支えていたようでした。物語の展開としては実に正統派。いつもはやや違う方向性のようですが、これはこれでいいのではないかと思います。正統派の芝居をきちんと描けるというのは、その劇団がしっかりとした演技や演出における基本的な実力を持っているということでもありますから。

ただ、雰囲気はいいのですが、少々関わり合いという面では不自然な面はあったかもしれません。何かがあって、自分の心の中にその現象が落とし込まれ、その上で反応する。そういうのが普通の人間の感情の動きなのですが、台詞だけが走っていってしまい、上滑りを起こしているような傾向が一部見られたように思います。台詞を話したり、段取りどおり演技というよりも決まった動きをすることの方にとらわれすぎて、自分の心が置き去りになってしまっているような印象です。

中身のない台詞と言うのは引っ掛かりがありません。引っ掛かりがないから観客の心にも印象をくっきりと残しにくいのです。辞書のような情報としての言葉だけが流れて行くだけで、人間としての心(あえて感情とは言いません)がこもっていないので、滑舌がいくらよくても何を言っているかわかりにくいというようなことになってしまいやすいのです。

人間はいろいろな記憶を持っています。人と人との間合いや距離というのはそれによって変わってくるのです。ネロと他の人々の間の親密さ、思いの深さ。そういうものをなるべく具体的にイメージ化する。方向性を定める。それがベースにあって、心の中にいったん落とし込まれて反応する。それができれば、もっと生き生きとした人間の物語が立ち上がってきたような気がします。

KID白書『B・S』 KID

KIDの作品『バス・ストップ』を題材としたバックステージもののひとり芝居です。あるバス停で何人かの若者が出会う。それぞれがそれぞれに傷つき、挫折を味わい、人生の中であがいている。犯罪を犯したものもいる。絶対にどこにも存在しない夢そのままの平和な南の島へ行く夢を語る。そこへ行こうと誘う。争い、対立。心のぶつかり合い。そして向こうからバスがやってくるまでの物語。その芝居を上演するための稽古のシーン。演出家と役者のたたかいが客席へ向かってくる魂の熱さと共に描かれていきます。

真っ暗な舞台に置かれた演出家のイスと机。机の上には缶ビールが一本。スポットに照らし出されています。その前にはもうひとつスポット。小道具としてのバッグが一つ置かれています。

演出家はイスに座り、役者の演技に見入り、ついで、演技指導をしていきます。熱く、あくまでも激しく。

作・演出・主演の多加村さんはあの演劇の熱かった時代、東京キッドブラザースの研究生だったそうです。その時代を髣髴とさせるような、演劇への情熱、思いがほとばしっているような作品でした。

きっとあの演出家は多加村さんご自身であると共に、その背景にいる大きな存在、上記劇団主宰の東由多加さんでもあるのでしょう。揺るぎのない意志と思いと情熱を持って芝居、ミュージカルを作っていく。それに立ち向かう役者も全身全霊を持って応えていく。その迫真性に、思わず舞台を見入ってしまいました。ひとり芝居でありながら、演出家と二人の役者の描き分けは見事です。

問答無用とはこのことかと思いました。正統派と評せる劇団todayさんの芝居と違い、これは思い切り変則的。しかしとにかく熱い、しかも気持ちのいい熱さ。演劇関係者ならば、憧れるほどの。思い切り言いたいことを言って(かなり演劇論、演劇に対する姿勢・意識についてなど入っていました)、やりたい事をやったなと感じました。

確かに問題点はなくはないのです。二人以上で演じれば、間違いなくそこがクライマックスになっていく格闘のシーンが、ひとり芝居ではむしろ、そこまで盛り上がってきた流れを切ってしまい、一度テンションが下がるというか、客側の集中が切れるというか。そこからもとのレベルまで持っていくのに時間がかかってしまったこと。

これについては今日になって、格闘する二人を演じようとするのではなく、ひょっとしたら格闘している片方、ひとりを徹底的に演じきった方が、案外テンポやパワーを維持することができるのではないか。という考えに行き着きました。なんにせよ、ひとり芝居において一番難しいのは、やはり二人以上の人間の葛藤をどう見せるかなのだと思います。

ただ、上記のような問題を抱えつつ、それでもこの舞台は見事でした。私が日ごろから判断の基準にしているもの。パッション、観客へ向かう真摯さ、遊び心。これらを満たして余りある作品に対して、わたしは講評係でなければ本気で、スタオベしたいとさえ思いました。まっすぐこちらへぶつけてきた思いの強さ、情熱、あの熱い時代を思わせる、演劇に対するまっすぐな心意気に素直に拍手したくなったのです。

だから、芝居は技術や見てくれだけじゃないんです。相手の心に、エネルギーに、思いの強さに参っちゃったら、それだけで評価することができる。本当に生きた作品というものは凄いし、いいもんだとつくづく思わせられる舞台だったと思いました。
(後半に続く)

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ドラマ・リーディング『マクベス』

2008.10.28(火)15:00
於:世田谷パブリックシアター シアタートラム

『マクベス』より
作:Wシェイクスピア
翻訳:河合祥一郎
演出:野村萬斎

野村萬斎氏演出によるドラマリーディング『マクベス』。このドラマ・リーディングとは世田谷パブリックシアターの企画でよく行われている、いうなれば、朗読による芝居とでも言うもの。本舞台における本公演の前に行われるたたき台的なものと考えればいいかもしれません。ですから、一応、現代劇の中堅どころとされる俳優が出演するにもかかわらず、1,000円という破格のお値段なのが実にうれしい企画ではあります。

河合&萬斎というコンビによるシェイクスピア作品は、萬斎氏がプロデューサー兼主演という形で上演された『ハムレット』を皮切りに、萬斎氏演出・主演の『国盗人(『リチャード三世』の翻案)』に続く三作目です。その前には、高橋康也脚本による『まちがいの狂言(『まちがいの喜劇』の翻案)』の演出も手がけています。

今回は短時間の公演でもあり、中身をかなりはしょっているので、所々話が飛んでいる部分もあり、内容的にもかなりの実験作であるとの萬斎氏の解説の後、上演となりました。

舞台は実にシンプル。先日聴いてきた萬斎氏によるレクチャーによれば、氏の大好きな二段構成。奥に氏の言う所の『魔の空間』としての一段高い、奥まった場所があり、上手、下手に入りはけの場所があります。背後は石積みを思わせる壁面で、中央に赤い垂れ幕にも見える赤い部分が縦に走っています。この壇上にイスが3つ。

その前面に一段低い舞台。上手・下手背後に一つずつ登退場口があります。中央部分が色違いになっていたのかな?はっきりした記憶はないのですが、両側の登退場口の前に細い床が黒の部分があって、そこにベンチがそれぞれ一つずつ。登場前の待機場所になります。なんとなく氏演出の『まちがいの狂言』と似た舞台構造のように思われました。両側の黒い部分は変則的な橋掛かりのようにも思えます。

役者のシフトは五人構成。マクベス、マクベス夫人(ヘカテと二役及び三人の幻影)、三人の魔女(そのほかいろいろの役)という役割。実はこれは、以前私が小劇場で小人数で『マクベス』を上演するという方向で考えていた時のシフトとまったく同じでしたので、かなり驚きました。しかも学問的解釈上、シェイクスピア自身の手によることを疑われているヘカテという三人の魔女の上に存在する魔女をマクベス夫人の裏に置くということまでまったく一緒だったので。ヘカテは先述の理由と、なんとなく物語自体から浮いているというか、何で出てきているのかよくわからないというところから、通常は『マクベス』上演の際、ほとんどの場合カットされる存在なのです。それをあえて使うというこだわりが、ひょっとしたら私の考えと同じなのかと思わせて、実に興味深いものがありました(すいません。自分の作品自体のネタばれになるので、今回は詳しくは書けません。ご了承ください)。

以上のような構成で上演された舞台は、三人の魔女役に男性三人を配し、実にアクセントのある魔女たちのシーンから始まりました。この魔女たちは最後のシーンにも登場します。マクベスの運命が尽きた後、また新たなマクベスを目指してどこかに出現するのではないかと思わせるような表現は実に面白いものでした。ちなみに、この三人の魔女は上下とも黒の服、マクベス夫妻は上が白のシャツに黒いパンツといういでたちです。

舞台全体のテンポは実にスピーディなものだったのですが、ところどころ、どうもたるいと思わせるような部分も無きにしもあらず。じっくりと観ていると、あることに気がつきました。

本を読みながらとはいえ、メリハリや抑揚のある変化を伴う萬斎氏の台詞に比べ、現代劇組4人の台詞が実に変化に乏しいのです。それなりに変化をつけているつもりなのかもしれませんが、気づいてみれば、表情も、動きもほとんど変わりなしといってもいいくらい。三人の魔女たち、いずれもかなりの経験のあるプロの方なのですが、バンクォーにしろ、ダンカン王、マルカム、マクダフその他、演じていても誰が誰だかさっぱりわからない。アクセントの強いしゃべりと動きの三人の魔女のようなコントラストが感じられないのです。わずかに、動きで変化を見せようとしているのですが、それも成功しているとは言いがたい。

複数の役を演じているはずなのに、一役の萬斎氏のようなさまざまな色合いが出てきていない。これは普段から語りになれている萬斎氏の声の技術によるものもあるのでしょうが、何よりも役それぞれの魂が腹の中に入っていないことが原因なのではないかと私には思えました。役の捉え方が言葉の表層をなでているだけのような気がして仕方がありませんでした。言葉の奥に含まれる意味とかイメージの膨らませ方が足りないのではないかと。萬斎氏がとにかく、終始マクベスという人間の生き生きした色合いを持って舞台上に存在していたのとあまりに対照的でした。

その色合いのなさが、どうも萬斎氏の出番以外の部分でテンポのたるさを生んでいたような気がして仕方がないのです。これは中堅女優さんが演じたマクベス夫人でも同じでした。私は先に書いたように、自分でも上演しようと思ったこともありますので松岡和子訳の『マクベス』を何度も読み込んでいます。この本を台本に使った蜷川幸雄演出、マクベス夫人を大竹しのぶが演じた作品も観ています。で、やはり、そこからすると、最後に狂ってしまうマクベス夫人は人間的弱さのある、普通の奥さんだったとしか思えないのです。

普通の奥さんが、夫の望みを遂げさせるためにあえて悪女を演じ続け、目の前に気がついてみればぱっくりと口を開けた地獄の光景に、怖ろしいまでの後悔にさいなまれ狂ってしまう。この方が、人情として実に納得ができるのです。少なくとも生きた人間としてこの場合のマクベス夫人は描かれることになるのです。

ところが今回のマクベス夫人は、徹頭徹尾、典型的な悪女という記号でしかありませんでした。夫を見下し、自分の野望のために突っ走る。でもそれだと、何で最後狂うのかわからないんですよ。良心の呵責といいますが、そんなもので悪女というものが狂うとはどうしても私には思えないんですね。だから狂気のシーンに説得力が生まれてこなかったし、何よりも、破滅を前にして精神がささくれ立って人間性を失っていく夫のマクベスとの関わり合いにおいて、不自然さ、違和感を感じてしまったのです。萬斎氏演じる人間そのもののマクベスとの乖離が起きてしまった。

その他にも、この女優さんの場合、どうしても自分の等身大の枠を突破できなかったようにも思えます。ヘカテが超自然の存在に思えなかったのがその実例。私が思うに、他の魔女たちに分け前として与える報酬とは命とか魂といったもののように思うのですが、この女優さんの演技では金貨レベルのものしか思い浮かばなかったんです。また、ううむ…という感じは、この方が三つの幻影を演じる段になってさらに強まりました。

マクベスの運命を語る三つの幻影。この三つは実に象徴的なものであるはずなのです。それが単なる声色になってしまっていた。奥に存在する超自然がここでもまったく感じられませんでした。赤ん坊だから子供の声でというのはあまりに陳腐すぎます。また、語る物事も、何のイメージもないのか、まったくこちらには伝わってはきませんでした。

一方、萬斎氏ですが、やはり立派な武人であったはずの存在が、ちょっとした魔女のささやきに惑わされ、狂気と破滅に転がり落ちていうさまが、まだ完全なものとは言い切れませんが、かなりよく描き出されていたように思います。本当にマクベスだけが色合いを持った人間でした。そしその語りの表現のイマジネーションの確かさ、技術の素晴らしさは、クライマックス、不思議なことにざざっと平面的に動くのではなく、むくりむくりと盛り上がってくる実に生命的な不気味さ、怖さを持ったバーナムの森の幻影さえ、こちらに伝えてきたのです。こんなバーナムの森、私は今までに観たことはありませんでした。

なんというのか、結局、この間の『わが魂は輝く水なり』についで、今回も古典の役者の底力を見せられたという思いが残った公演になったようです。最後の方のマクベスの独白を、ぐっと抑えた、ほとんどささやくような声でありながら明確に通してみせた萬斎氏の語りの技術、どこまでも役を追求して、最後は人間にしていくその執念とも言うべき没入の凄さ。言葉そのものに頼りすぎて演じているようにも見受けられる現代劇の俳優の多い昨今、実に考えさせられるべきものが多いように思えた舞台でした。

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